「セックスのようなもの」から「セックス」へ
ゴムを片手に風俗に行ったりデリヘル嬢を呼んでも、いざとなると、店とのトラブルに発展してしまって裏から怖い人がやってくるのではないか、という怯えから、なかなか勇気が出ず、「本番」にまで辿り着くことができない。
結果的に、風俗などでは、せいぜい「素股」が限界であり、ペッティングとフェラチオが中心の「セックス未満のセックス」というような性行為で終わることがほとんどで、挿入とピストン運動と射精という黄金体験は、自分からどんどん遠ざかっていくだけのように思われる。
たとえ挿入ができたとしても、なんとなくトラブルの予感にびくびくと怯えており、ペニスも少しばかり萎縮するようなのである。
イソップのきつねにセックスは与えられない
なんとかして、満足のいくセックスがしたい。そんなときに、自然と芽生えてくるのは「セックスフレンドがほしい」という願望だ。
セックスフレンドさえいれば、ペッティングやフェラチオが中心の「セックス未満のセックス」ではなく、挿入とピストン運動がメインの「セックス中のセックス」としか言えないセックスができるはずである。
しかし、そんなありがたいセックスフレンドであるわけだから、そう簡単に手に入るはずもない。
セックスフレンドがほしい、と願って、ただボンヤリとセックスに憧れているだけでは、セックスフレンドを作ることは到底できない。
セックスフレンドを手に入れてみせる、という自分の意志を行動に映さなければ、セックスも、セックスフレンドも、イソップ童話の「きつねとぶどう」における「ぶどう」のように、永遠に手に入ることはない。
セックスへの鉄の意志と出会いのツール
「きつねとぶどう」におけるきつねのように、「セックスなんて、女性器なんて、酸っぱいぶどうさ」なんていってセックスを諦めてしまうというのも一つの道かもしれないが、そんな「すっぱいぶどう」式の諦めは、セックスがしたい、セックスフレンドがほしい、という自分の願望を裏切ることでしかないのではないだろうか。
セックスフレンドがほしい、と思ったのであれば、そのセックスフレンドがほしいという願望をなんとしてでも実現しなければならない。
セックスフレンドを手に入れるという目的のための手段はなんでもいいだろう。テレクラを使うもよし、出会い系を使うもよしだ。
だが、「セックスなんてすっぱいぶどうだ」といってセックスを諦めている人間では、どんなツールをもってしても、セックスフレンドを作ることはできない。
セックスフレンドを作ろうという鉄の意志、そして、セックスフレンドを作るためのツール「セフレ掲示板」これらが手と手を取り合ってついに共闘を始めるとき、はじめて「真のセックス」への道が開かれるのだ。